「スマイルハウス」です。
11月も半ばに入り、徐々に寒くなってきてますね。
冬の足跡が近づいている…そんな気配がします。
今年もまだ例年より暖かい方なのかな?
さて、11月…
秋と冬の境界を示す月ですよね?
日本では「霜月(しもつき)」とも呼ばれ、字のごとく「霜」が降り始める…秋から冬へ移り変わる時期を表してます。
その他にも「食物月(おしものづき)」が訛って「霜月」になったという説もあります。
また「神楽月(かぐらつき)」や「子月(ねづき)」という呼び方もあるみたいですね。
では、11月は歴史上で如何なる出来事が起こっていたのでしょうか?
今回も日本国内で調べていきます。
2日
8月の出来事は?で出てきました「大岡忠相」が奉行を辞任した日だそうです。
皆さんご存知の名奉行「大岡越前」です。
3日
祝日「文化の日」
同日付
「源義経(みなもとのよしつね)…都落ち」
4日
「服部半蔵(はっとりはんぞう)」没…
忍者といえばこの人が真っ先に思い浮かぶんじゃないですかね?
徳川を影で支えた伊賀流の忍者の長ですね。
日本初の…いわゆる「特殊部隊」の隊長です(笑)
その功績を称え、現皇居(旧江戸城)に「半蔵門」という名を冠する門があります。
都市伝説ですと引退後「松尾芭蕉(まつおばしょう)」として日本全国を渡り歩いたとの話もあります。「奥の細道」における松尾芭蕉の1日の移動距離は常人ではありえない移動距離、移動スピードらしいです。
しかし、元忍者部隊の半蔵であれば…納得ですね(笑)
5日
幕末暴走機関車…じゃない「吉田松陰(よしだしょういん)」の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」がこの日に開講!
過去ブログでも熱く語っています!是非!
7日
「毛利秀元(もうりひでもと)」誕生
「1本の矢では折れやすいが3本集まれば決して折れない…」
兄弟3人力を合わせて、今後はやっていけという「毛利元就(もうりもとなり)」の子供達に対する遺言…
俗に言う「三本の矢」…「三矢の訓え(さんしのおしえ)」ですが…
実は毛利家を救った「4本目の矢」がいるといわれ、それが秀元のようです。
何ともヒーロー物で後半から急に加入するヒーローみたいな位置ですな(笑)
…まぁ「三矢の訓え」自体は元就の死後に色付けされたものらしいです…
本当は「三子の訓え(さんしのおしえ)」という書状であり、元就が臨終の際に言い聞かせたものではなく、矢のくだりもありません。
残した訓えの根底は同じようですが、実際は感動的要素がないというか…
ぶっちゃけ言うと…
「お前ら3人の間に少しでも亀裂が生じたら、オメーラ3人とも滅亡すっからな!!おうっ!?」
のようです。
※こんな乱暴な言い方じゃないですが…内容はこんな感じ(笑)
10日
「大正天皇即位の礼」
「昭和天皇即位の礼」
先日、令和天皇に即位された天皇陛下の即位パレードがこの日でしたね。
何故、この日がパレードになるんだろうと少し不思議に思っていたんですが…
こういう事も理由なんでしょうかね??
2019年の11月10日は日曜日であり大安…
そして「大正」「昭和」と両天皇が即位した日となれば…これは良い日に…
12日
里見VS後北条…「鶴岡八幡の戦い」がありました。
世は戦国時代の幕開け…鎌倉の時代。
源平の戦いもそうでしたが、戦のキーマンとなっていたのは「水軍」でした。
里見水軍…海上から攻め上がる大軍勢…驚異のようでした。
15日
幕末で最大のミステリーとされる日…
「坂本龍馬(さかもとりょうま)暗殺」
京都の「近江屋」に潜伏していた坂本龍馬ですが、この日…数名の刺客に襲撃され亡くなります。
幕末最大ミスリーとされているのは、暗殺したのが誰か?どの組織なのか?です。
様々な仮説と憶測が織り交ざり、幕末最大ミステリーとなっております。
奇しくもこの日は龍馬の32歳の誕生日でした。
幕末の最大功労者でもある坂本龍馬は…
自分の作り上げたであろう…
新時代の幕開けを…
日本の夜明け…明治になるわずか数日前に亡くなりました。
子供の頃に見た、伝記での坂本龍馬…
龍馬は新しい世を創る為に天に遣わされ、そして…その使命を終えたので…
龍のように天へ登っていった…というエンディングを見た記憶があります。
大人になって、改めてこのエンディングはやはり違うぞと(笑)
龍馬自身は大政奉還後の政府新体制に入るつもりはなく、今後は「海援隊(かいえんたい)」として世界をも相手に走り回るつもりだったようです。
本当に龍馬がやりたかった事…
実はここからだったんではないかと…思っています。
世界を相手に打って出るのにも、まずは自国のシステムを変えないと自由に世界など相手にできない…その思いで走り抜けたと…
多分、誰もが幸せになれる世に…などと龍馬自身は微塵も思っていなかったんではないか?…と思っています。
※但し、私の妄想がかなり入っておりますので注意(笑)
吉田松陰のブログの時もそうでしたが…聖人君子って魅力ないですよね?(笑)
今の世…龍馬が考えていた世になっているのでしょうか?
聞いてみたいですね。
そして、もう一つ…
龍馬の妻である「お龍」さんがこの日に亡くなられています。
明治39年…享年66歳だったみたいです。
まさに龍馬の命日と同日…
夫婦だったんですね…
別のブログでは千葉道場の「千葉さな」派かもと私は書きましたが…
これを知ると…
どっちも…ロマンティックだなぁと思ってしまいます。
17日
「静御前(しずかごぜん)」が吉野山中にて捕まった日らしいです。
先程の「源義経都落ち」の続きですね。
頼朝に追われ逃亡を続ける義経一行…
その中に「静御前」もおりました。
…簡単にいうと義経の「彼女」です(笑)
そして、この時に静御前のお腹には子供がおりました。
身ごもった体では、この先の逃亡の足でまといになる、さらにここから先に進む「吉野」は女人禁制の地…
義経と静御前はここで別れる決意をします。
実際には義経と別れた後、「投降」したという方が正しいでしょうか?
さて、この静御前…美人であったようですが…
格好良い女性としても表現される事が多いですよね?
静御前は元々は都一とも言われる白拍子。
義経は源平の戦いにおける兄である頼朝が嫉妬するほどの功績を残している、言わば立役者。
わかりやすくいうと
この時期の国民的ヒーローとトップアイドルのカップルみたいなもんです(笑)
この後、静御前は母親「磯禅師(いそのぜんし)」と共に鎌倉へ幽閉されてしまいます。
そして妊娠7ヶ月程の時に、頼朝より「鶴岡八幡宮」での奉納の舞を舞う(踊る)事を命じられます。
都随一の白拍子…歌って踊れるトップアイドルといえど妊娠7ヶ月の身重…
しかも重要な神事…
はっきり言って無茶苦茶です。
世が世なら頼朝はパワハラで訴えていいレベルです(笑)
それもその筈、頼朝からすれば…
世間的に人気の高い白拍子である静御前…いつの間にかに憎き義経と付き合っちゃって…
恥かかせたろうかいっ!という策略がないと説明つかんですよね(笑)
当然、身重の静御前は当日…ろくに舞う(踊る)事ができません。
「都一の白拍子も…所詮はこの程度だ、なにせ義経が付き合う位の娘だから、こんなレベルだよ(笑)」
という頼朝のニヤけた顔が想像できます(笑)
しかし…ここで遂に静御前のアイドル魂?に火が付きます!
なんと、こともあろうか頼朝の前で…
「義経を想う歌」を舞います!!
吉野山で愛しき義経と別れなければならない情景…
そう、その切なさと、いとしさと…心づよ…
(篠原涼子かっ)
とにかく見ていたものを魅了し感動させてしまいます。
まぁ…クソ度胸です。
格好良い女性像はここから来ているのでしょう。
しかし当然、頼朝は激怒します。
そりゃ、神事に謀反人である義経を…
愛してまぁぁぁぁす~!!
と歌っている訳ですから(笑)
その場で殺されても仕方ないレベルです…当時は…
しかし、それを止めたのが頼朝の妻である「北条政子(ほうじょうまさこ)」です。
北条家は当時は伊豆国の豪族。
政子自体、当時は流人(今でいうと罪人)であった頼朝と一緒になりました。これは異常な事で、当然ながら家柄の事もあり、周りの猛烈な大反対がありました。
政子は家出当然の身で、想いだけで頼朝と一緒になったそうです。
静御前の心境と頼朝と一緒になった時の心境がリンクして…当時の自分と同じ想いであるだろう、静御前を助けたとされております。
これが語り継がれる「鶴岡八幡ー静ノ舞ー」です。
しかし、私はドロドロした方が好きなので(笑)
実は「女のプライドの戦い」説を推したいです!
静御前は白拍子としてのプライドそして女のプライドをかけて「あの舞」を踊ったと…
あんな危険を冒しても…大丈夫だと…
何故なら政子が止めるしかないから…
政子視点、周りに反対されながも当時は流人であった頼朝を想って夫婦となったのです。
もし、静御前が処刑される事態となれば…処刑を認めた政子は…
当時の自分と同じ想いであろう義経を慕う静御前の気持ちが解らない…
「器の小さい」女となります。
世間での民の内心は…まだまだ「義経=英雄」の気持ちもあり…
しいては、世間は一気に静御前同情の目線が高まり、頼朝の選んだ女は義経の選んだ女より…格下と世間は見る事になるでしょう。
そう…今回…株を上げたのは
政子も同様なのです。
痛み分け…これが解っていたので、静御前は仕掛けたのではないかと(笑)
頼朝もこれでは静御前を処刑できません。
自分の器量を下げる事になりますから…
((´Д`;)
なんて考えてみましたが…こちらの心理合戦説の方が…何か面白いと思いません?(笑)
頼朝の内心は穏やかでは無かったと思いますが…
何か昔の昼ドラみたいですね!
21日
「平将門(たいらのまさかど)の乱」
こちらは平家側から…
この日、常陸国府を将門が襲撃。
国印を奪います。
国印は公文書に押されるハンコです。
つまりそれを奪い去った将門が常陸(今の茨城県)国を奪ったと同意になるわけです。
当時、重い税に悩まされる民の為に立ち上がった平将門の戦いが始まります。
将門の井戸…有名なパワースポットになりましたね…名前だけでも聞いた事ある人が多いでしょう。
同日付
「平賀源内(ひらがげんない)殺人罪で御用」
発明家といえば「トーマス・エジソン」や「ニコラ・テスタ」…「アルベルト・アインシュタイン」などおりますが…
江戸時代の日本にも「平賀源内」という天才発明家がいました。
有名な話ですと、当時オランダ経由の長崎で手に入れた「エレキテル(発電機)」を説明も無しに直してしまったという逸話があります。
他にも「からくり人形」など子供など喜ばす発明も多いようで…
「竹とんぼ」も源内の発明とされています。
また、源内は今で言う「コピーライター」でもありました。
現在も残る源内発祥のキャッチコピーがありますよね?
「土用の丑の日」
土用の丑の日には「うなぎ」を食べて精をつけよう!と言うのは源内が作った風習だとされています。
ある日、夏場にうなぎ屋が「お客が入らない」と源内に相談を持ちかけたそうです。
すると源内が「ならば「うなぎの日」を作ってしまえば良い!」と…
「夏の土用の丑の日にうなぎを食べると滋養に良い」という触れ込みで、「本日は土用の丑の日」とうなぎ屋の店頭にキャッチコピーをつけたところ…瞬く間に世間に広がり、うなぎ屋は繁盛したとされています。
ですがこの説…色々あるそうで…万葉集の一文から伝わったという説もあります。
さて、この源内…天才と言われてますが、当時は「異才」という表現が合っていて…相当な変わり者として見られていたそうです。
それは源内の墓所にも、今の言葉で言うと「変わった人、好みも行いも常識を超えていた、死に様まで非常であった」と刻まれております。
※当時では珍しく男色好むという事もカミングアウトしてるみたいですね…
この言葉を刻んだのは友人であった「杉田玄白(すぎたげんぱく)」
杉田玄白もある種の異才を放つ人であり、西洋医学を広めた功績のある人物の1人です。
オランダの解剖書(ターヘル・アナトミア)を翻訳した「解体新書」を書いた人で、偉人として語られています。
異才は異才に惹かれる…のでしょうか?
そして「死に様まで非常であった」と刻まれていますが…
安永8年…とある大名に屋敷の修理を請負いますが、その修理計画書を盗まれたとして、大工の棟梁を殺傷してしまいます。
源内は御用(逮捕ですね)となります。
しかし、言わば判決が出る前に…御用よりわずか数日で源内はこの世を去ります。
真相は闇の中です…
ですがその日…源内はかなり酒に酔っていた事もあり、源内の完全な勘違いであったのではとされていますね。
早すぎた天才…平賀源内でした。
とまぁ、長くなってしまいましたが…
この辺にしておきます(笑)
個人的に興味を引いた出来事だけで申し訳ない!
(´∀`)
…実は11月はまだまだ出来事が多く、また機会があれば書いてみたいと思います。
お付き合い…ありがとうございます!!